戦艦のゴミ箱
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『もしもし、私です』
『いえ、ご相談したいことが。えぇ』
『フリードリヒ任務のついで、というわけではありませんが。その折にある男を』
『えぇ、そうです。彼の忘れ形見の一人です』
『願わくば、全員一緒であることが、管理の面から見ても好都合かと』
『はい』
『ですから、一人、今日本支部が最も必要としている男です』
『なので、あなた方、理事会方からもドイツ支部へ話を通していただきたく』
『ありがとうございます』

『はい?』


「はい?」
声裏返り、マヌケな返事をする新人を前に、黒衣の大男は存外に笑顔であった。
「拒否権はないのだよ波戸崎くん。任務だ。私とデートしなさい。日付は一週間後。既に財団職員用の偽造パスポート、現地警察手帳、免許証が用意してある」
意気揚々と説明する男をよそに、波戸崎は胃から無限に湧き出る吐き気を堪えることに必死であった。
涙目に口を両手で抑えながら、波戸崎は必死に命乞いをするように。
「な゛っ、なんで・・・」
「なんでも糞もありはしないのだよ。ここは財団で、我々はその職員で、上から命じられた職務を遂行する」
「これを阻害する何者も、この地上にはぁ存在しないんだよ」
崩れ落ちそうな部屋の扉を貫いて、盛大な嘔吐が聞こえてくると、職員らが噂したことを彼らは知らないでいる。


「おじちゃん、何してるの?」
「私ですか?私は今稲を見ていたところです」
「いね?あれは畑だよ」
街が夕焼けに染まる頃に、その人は現れた。
今はまだ、ほんの子供である。遠くには同じ歳ごろの子どもたちが遊ぶ声がする。しかしながら、この子だけは、離れた所で一人歩いていたのである。そして、その男に出会う。
彼は、黒衣のその彼は、その子を待っていたかのように、畑の脇の大木に背中を預けて日を見ていたのである。
「そうだ、あれは畑でもある。だが、私は稲を見ていたのだ。どちらも、間違いではない」
「おじちゃん変なことを言うね」
そう言われて、男は笑ってしまうのである。
それは、君から言われたことであると、男は言えなかった。
「みてごらん、日があんなにも綺麗じゃないか。見に行かないかい?」
「うん」
そう言って、男と子は手を繋いで、畑道に這入って行くのである。

男の子はずっと、稲の中に何かを見ようと必死であったように、男は思う。
男の子はずっと、それが稲なのか畑なのか分からなかった。
そんな瞳を目の当たりにし、男はその子に介入したくてたまらなくなった。
なって、しまった。


「大丈夫かね?飛行機は初めてだったかい?」
「えぇ…初めてですよ。ちょっと怖かったですけど、まぁ」
二重の要因により空よりも青い顔をした青年と、海よりも黒い衣で全身を彩った男が国際線のターミナルに立っている姿は、異様な雰囲気を、印象を周囲に与えることは確かであった。
男は腕時計を覗き、
「そろそろ時間だ。行くぞ」
と告げる。
注意して見れば、青年が脚を引きずるように後をついて行っている事には気がつくであろう。

二人はロータリーに出る。そこはスイスの空であった。
「郷とは違った香りがする所だな。流石は」
「博士って本当に外国人だったんですか?」
男は青年の言葉に呆れたと言わんが顔を差し向ける。直後ににったりと笑って見せ
「なぁにを言うか。私はブランデンブルク生まれテューリンゲン育ち生粋のドイツ人であるぞ!」
「嘘くせぇ」
しかしながら、お互いそれ以上何も言うことがなかった。
青年は、男の碧眼と金髪を説明できなかったし
男は、それ以上の経歴の証明を禁じられていた。
二人の間に不味いと形容できる関係性あるいはその場の心情が発生した所に、彼は現れた。
まったくもって絶妙なタイミング。神妙なタイミングであり、完璧とも言えた。
「お久しぶりです博士。よくお戻りになられた。こちらが仰っていたハトザキ ゴウ様で宜しいでしょうか?」
異質であった。
ここはスイスであることは間違いがない。青年の眼前に立つ男も欧米人であることはまず間違いが無い。
しかしながら、発せられた言葉は、ほぼ完璧な日本語であった。
「は、はいそうです。波戸崎 豪です。よろしくお願いします!」
「あの…博士この人は…」
しこたま度肝を抜かれた青年はおずおずとした態度で精一杯であった。
「こいつは私の旧い友人でな。そうだな…なんと呼べば良いことになっているんだ?」
「エルヴィンと呼んで下さい」
「分かった。ということだ。こいつも財団職員で清掃員をやってる。今回はまぁ…旧い付き合いだしな?一応護衛任務をやってもらっている」
男は少し困ったように説明する。そんな焦りと困惑を青年も感じ取ったのであろう。
財団職員の中ではKeed to knowの原則は原則ではなく、大原則として定着している。知る必要のないことを聞く必要は無いし、知るべき人間に知るべきだけの情報を与えることが常である。

「何故清掃員の方が護衛に?普通エージェントなんじゃないんですか?」
こういった場合もあるわけで。
男は困ったような、呆れたような大きなため息をわざとらしくついて見せるのである。


「よく来た、座ってくれ」
「そうさせてもらうよ」
「君はまったく、いつも変わらないな。あの日遭った時から、君は何一つ変わらないじゃないか」
「そういう例外もいるってことだよ」
二人は旧知の仲であった。
子供の時から男は彼を知っている。
テューリンゲンの片隅で、今ひとつの偉大なる頭脳がその誕生を目前としていた。
後世にその名を残し、偉大なる論述で永久に人の心を掴み、惑わし続ける存在。怪物の誕生である。
「また1つ考えを纏めて見たんだ。よければ見てくれないか」
「喜んで」
後の偉大なる怪物、彼は時たまその男に自分の考えを纏めて見せることを良しとしていた。
おおよそ、人なる者は自分の考えを他人に覗き込まれることを嫌う。あるいは嫌うように感じられる。
しかしながら、彼はその例に漏れる存在であった。
だが、そう突き動かすのは彼の自由意志ではない。自信があったわけでもない。恐らく後者の可能性を彼自身に提示したならば、激怒するであろう。

男のパイプから灯が消える頃。日もまた地平に沈まんとするようであった。
彼はその頃には無言でノートを読み続ける男をよそに、窓の外に見える夕焼けを覗き込んでいた。
男がそれに気がついたとき、男はあることを思い出した。
「懐かしい光景だな」
「覚えているのか」
あの日、稲の畑の脇で彼と出会ったことを、男は思い出し、彼もまた、覚えていたことに驚嘆するのである。
あの出来事は彼に大きな印象を残した。非日常が日常の隅から顔を覗かせたような経験であったと、彼は感じるのである。
「読み終えたのか?」
「あぁ勿論」
そう男が答えると彼はまた自分の椅子に戻り、男を見、そして観察する。
「どうだった?」
彼は自分で自分の質問が馬鹿らしくなった。
「どう」と聞かれても「こう」と答えられる訳がない。
あれだけ膨大に綴ったノートを読んでしまえば、思う所をまとめる時間だって欲しいはずである。
「どうと言われてもなぁ。ただ、私はもう君の考えを完全に理解できないし、理解できたとして、何かアドバイスや提案が出来る人間でもなくなってしまった事だけは、印象深い」
男はそのように自らの思う所を述べた。
彼はそれを聞いて、なんともまぁ悲しそうな顔をして、立ち上がる。
また窓のそばによっかかって、遠くにある太陽のその更に向こう側を覗き込んでいるかのような目をしだしたのである。
ただひたすらに。
「では、私に何か新しい何かをくれはしないか」
男は固まった。
それまで動き続けていたわけではない。男の思考が完全に停止してしまった。それはある種の隔絶を意味する。
新しさ、新規、それは持てる知識の外側。それを彼が口にしたことを、男は瞬時に理解できた。
「私に、新しい何かを」
男は未だ黙っている。
それが許されることではないことを、彼は知っている。あるいは察することが出来るはずだと。
「でなければ」

「私は狂ってしまいそうだ」
振り向いた彼の目は日に焼かれ、そのまぶたには雫が溜まっていた。


「てっきり僕がボディーガードやら運転やらやらされるんだと思ってましたよ!ありがとうございますエルビンさん!」
「いえいえとんでもない。これも、私の任務ですので」
「波戸崎くん、彼はエルビンじゃなくてエルヴィンだよ。これで14回目だよ?」
「殺しますよ」
「そうはさせませんし、エルビンで大丈夫ですよ」
エルヴィンが懐に手を入れたのを見て、青年はまた青くなり、男は面白さに高笑いを上げるのであった。
男はひとしきり笑うと車窓の外に広がる町並みを眺める。同じ国ではあれど、州が違えばここまで変わるものかと思えば、懐かしの店がチェーン店になっていたりと男はひとりでに楽しくなり、笑顔になる。
それを脇目に見た青年はこの居心地の悪い車内から一秒でも早く、一光年でも遠くに逃げ出したいと常々思うのである。

「そういえば、この車どこに向かってるんです?ミラノに行くのかと思ったらもうだいぶ通り過ぎちゃいましたしこのままだと山奥に行っちゃいますけど」
「あぁ、そうですね。波戸崎さんにはお伝えできますけど博士は…まぁ知っていますけど…」
「そうだな。この場合どうすればいいんだろうなぁ?少し本部に確認を取る」
そう言って男は端末を取り出してメールを打ち始めた。
青年以外の面々が困っている様子であるのを気にし、あることに気がついた。
「えっ、博士フランス語出来るんですか?」
「出来ないよ?」
答えてから男はその事を思い出す。
「あぁ。そうかそうだった。エルヴィン、今回の海外任務は波戸崎君の教育も兼ねている。こいつはまだ日本国内でしか活動していないからその事も教えろと上から命令が有ったんだ。説明は頼むよ」
それを聞いて、青年は今現在自分がかくも苦痛を味わっているのは財団の上層部の意志であることに心底腹が立った。
「なるほど、分かりました。財団では自分の母語を世界各国への連絡や情報交換に使用できます。研究者全てが全ての国語に堪能であるわけではありませんし、堪能である人物が傍に居ないこともほとんどです。ですから、例えば日本語の文章をアメリカ本部に送るとアメリカ本部で専任の通信スタッフが日本語から英語への翻訳を担当します。現在はほとんど機械翻訳の精度が完璧なのでそちらに交代しつつありますけどね」
「は、はえ~」
「間抜けな声を挙げないでくれるかな?笑えて文字が打てないじゃないか」
「銃はしまっておいてくださいね」
彼の言葉に青年は寸での所で踏みとどまった。
「何か質問があれば声をかけてくださいね」


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