戦艦さんのごみ箱3

人 間 は 万 物 の 尺 度 で あ る —プロタゴラス

真っ赤に汚れた燭台に真紅の灰皿。旧式のラジオが息苦しそうに漂う電波を音にしている。

飲み干されたグラスを傍らに片方の男は椅子に深く腰掛け姿勢の悪いその身体を辛うじてもう片方の男の話を聞く姿勢に保っている。もう片方の男はといえば、それとは対照的にすらりと伸びた背骨の上に小さな頭と金髪がちょこんと乗っている様で、蹴れば折れそうな体つきをしていた。

ひとしきりの談笑の後に、ラジオが息も絶え絶え途絶えてしまった。電池切れであろう。二人の男達は意にも介さず、それきり黙ってしまった。休息であるのか、それとも何なのか、誰にも分からなかった。
不意に、姿勢の悪い片方の男が座り直して「そういえば」と切り出した。「昔、いや。そう昔でない昔にだ。私はある仕事を任された。それは"商品の受け取り"という仕事だった。あの時は困惑したね。普通の郵便ならばサイトの雑用が持ってきてくれるし、実験機材ならエージェントが取りに行くのが普通だ。だがどうも、担当のエージェントはその最近で辞めてしまったらしく。私が受け取りのサインをしに行けとのことだった」
そこまで話を聞いた片方の男は何を言うでもなく静かに聞いていた。目はずっと、男の方を見据えながら意識は過去を振り返るようであった。
「行ってみると、そこにはスーツの男がひとりでジュラルミンケースを抱えて待ってたんだ。日本人とも、それ以外とも分からないような顔だったのはよく覚えている。男はそっと書類を差し出してきた。そしてこう言ったんだ"頼まれた商品の一部に不良品が混じったからお代は安くしておく"と」
そこまで聞いたもう片方の男は急に顔を顰めた。予感であろうか。その顔つきを見て話していた男はそっと笑い、グラスに酒を注いだ。氷はもう無いというのに。
「そして、私は書類にサインした。酷く真っ白な書類だった。たった一言"実験機材納入 数量1000"とだけ。後はそいつのであろう名前と、空のサイン欄。私はそこに自分の名前を書いた。するとそいつは変な事を言い出した」
『先のエージェントはその前のエージェントより2ヶ月持った。良いほうだ』
「私はその時何のことだかさっぱり分からなかった。その書類を持ってサイト管理者の所に赴いた。すると彼は何の迷いもなく電話をかけ始めたんだ。恐らくは納入された機材のチェック担当だったのだろう。彼は数回相槌を打ってから電話を切った。そして私に研究に戻るよう言った。それだけだった」
そこまで話して、男は満足そうにグラスを空にした。そこでようやく聞いていた男は口を開ける。
「して、なんだったのですか?それは」
それを聞いて男は一瞬不思議そうな顔になり、途端に笑い始めた。
あまりに盛大に笑うもので部屋の外に聞かれていないか心配になるほどであった。

ひとしきり笑って男が落ち着くと、こう言った。
「Dクラスだよ」


「Dクラスだよ」
研究室に戻った博士は問う男に告げた。博士はそれだけ言うとまた机に向き直り、書類に筆を走らせる。聞き慣れた言葉であった。"Dクラス"その言葉が指す意味について、男はよく知っているつもりであった。だが、先ほどの事を経験した男にとって、その言葉の持つ意味は、価値は、全く異なるものでもあった。
「あの人は、確かに"実験器具"と…」
"実験器具"それはその研究室にも沢山置いてあった。世界最高精度のビーカーにフラスコ、ステレオタイプに思われるような研究室の調度品の数々は確かに"実験器具"であった。だが、それ以前に
「Dクラスは人間ですよ」
Dクラスは人間でもあった。
「そうだな」
と振り向きさえせずに、博士は男に返す。丁度十一行目のピリオドを打ち終えた頃であった。先程まで滑らかに運んでいた筆先がガリガリと音を立てる。知ってか知らずか、男は言いたいことを飲み込んだ。これ以上は、どうせ冷徹な言葉しか帰ってこないのであろうことを思ってのことであった。凍りついた空気に男の口は耐え切れず開き、次のように綴った。
「では、では"不良品"とはなんです?」
それは、無意識のうちに男の喉に引っかかった小骨の様な疑問であった。確かに、あの男は"不良品"と言っていた。それが意味することを、男は言った直後には理解したつもりであった。次に博士から発せられる言葉は、どうせ非道徳的であろうと予期していた。しかし、博士はそうは言わなかった。
「あぁ。あれは違うよ。ちゃんと検品されて納品された。財団に不良品は無いのさ」
男には意味がよく分からなかった。怪訝そうな顔をしていると背中越しにそれを悟ったのか、博士はこちらに向き直り、男の眼を覗き込んでこう言った。
「今朝は健康なDクラスを発注した。だがその中に数名の精神疾患と一部四肢の麻痺がある者がいた。財団としては、健常なDクラスを発注した故に、業者が勝手に"不良品"呼ばわりだ。失礼なことだよ全く」
質問する以前から、男の中に答えはあったのだろう。その答えは男が予期していた、期待していたものだった。だが、その意味は、男の思い描くものと違っていた。

「そう、ですか」
それだけ、男は言うと失礼しましたと一礼して踵を返し、後ろ手に扉を閉め、去った。


「王手」
「それは日本語でなくてよいのですよ、博士」
二人は小さなテーブルに向かい合い、盤上で駒を戦わせていた。丁度博士の黒のルークが白のキングを睨み付けている。満足そうに眺める博士か、あるいはチェス盤か、その双方の中間のような一点を見つめてリヒトホーフェンは動かない。それから二三長針が傾くころに、彼が口を開ける。
「それで、その博士の話で、あなたは何を得たのです?」
部下がDクラスの入荷を目撃し、その意味を問われた博士の話。リヒトホーフェンのチェスの腕は悪くない。だが無駄に考える癖のせいか、いくらか博士は退屈し、そのたびに世間話をするのである。仕事の合間の遊びの間でさえ、情報は錯綜する。
「あぁ。私は何も得ていないよ。だが彼は既にその男がフェイズ1に片足を突っ込んだんじゃないかって、そんな事を言っていたな」
「そうですか」
黒のナイトは左翼戦線を諦めてキングの守りに入る。
「そうだ。だが、フェイズ1には程遠い。確かに、その男は何か思うところもあったのだろう。だが、フェイズ1に気が付くのは早すぎる。死の意味は、そう簡単に分かるものではない。お偉方の危惧するフェイズ2も、そいつが生きている頃にたどり着くはずもない」
黒のビショップは右翼戦線に介入し、幅を利かせる。
リヒトホーフェンはしばらく苦い顔を見せる。ポーカーフェイスの精神は、何もテキサスホールデムに限ったことではないということを、今ひとつ理解していないようにも見える。苦し紛れの一手を打ち込んで一息つく。
「フェイズ2、私もよくは知らないのですが、それは」
「世界の砦だよ。それは世界の在り方と、それを守っている何者かの存在を知ることだ。フェイズ1からそこに上がってきた人間の割合は万に一つもないのだがね」
言い終わり、直後スッと博士が白のキングをチェス盤から引き抜くと、リヒトホーフェンは無邪気な声を上げて落胆した。対する博士は静かに笑うだけであった。

その男はそのうち、Dクラスとは何か、気が付くだろう。そう、大和博士は口にはしなかった。

5人の男を助けた貴方は自らの手で1人の男を殺した —トロッコ問題より

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